不惑の歳を迎える前に、惑わない情熱が僕を外へと連れ出した
フィリピン


梶川 聡

梶川聡。1977年、埼玉県生まれ。姉2人の三人姉弟の末っ子。幼い頃は恥ずかしがり屋の引っ込み思案。社交性を養うために小学校から野球を始める。中高ではバレーボールに熱中。大学卒業後に2001年にリクルート入社。30代半ば、次々と外へ飛び出す同僚に触発され、会社の外を意識し始めるように。その頃に出逢った些細な縁によってフィリピンへ渡ることになる。


  • 2001年4月 株式会社リクルートエリアリンク入社
          株式会社リクルート
          株式会社リクルートHRマーケティング
          株式会社リクルートジョブズ
          株式会社フロムエーキャリア
  • 2016年3月 Plecome Media Inc.設立
使いにくい情報サイトに腹を立て、無理矢理こじ開けたリクルートの扉

父親はいつも帰りが遅かったので、母親としっかり者の姉2人に囲まれて育った。周りは女性ばかりだったからなのか、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な性格だった。そんな様子を見かねた両親は、社交性を養えるようにと僕を野球部に入れた。意外とすぐにチームに馴染み、友だちが増えた。この経験のおかげで、知らない人と話すことが好きになったと思う。中学、高校ではバレーボール部に所属し、毎晩22時頃まで練習に励む日々。チームプレーを通して組織や集団活動を学び、何かに打ち込むことを知った貴重な青春時代だった。

一浪を経て大学に進学し、学生生活を謳歌しながら将来のことを考えるも何の信念も湧いてこなかった。飄々と過ごしていた大学4年の初夏、母が他界。就職活動真っ最中だったが何も手に着かず、まったく上手くいかなくなってしまった。就活に欠かせない求人サイト『リクナビ』で求人情報を毎日閲覧するも、使いにくいサイト、決まらない仕事、色んな怒りがどんどん溜まっていた。「いっそのこと、このサイトを俺がもっと使いやすいものに変えてやる!」という想いに駆られ、募集がないという不利な状況のなか、リクルートの門を叩いた。熱意は叶い、2001年に派遣社員としてリクルート社に入社することになった。

成果が目に見えた20代、人をまとめていた30代、40代は外へ

埼玉のメディア販社に配属され、がむしゃらに働き、朝まで飲み歩いていた20代。働けば働くほど成果が目に見え、やりがいがカタチになる楽しい時期だった。東京に異動し営業企画マネージャーとして求人メディアに携わることに。30代で就いたマネジメント職だった。他部署を巻き込み、人を動かさなければならない立場。学生時代に学んだ組織の一員ではなく、組織を動かす側になった。関わる部署のベクトルを合わせる難しさ、人をまとめる繊細さ、仕事の波を動かす豪胆さを備える自分であらねばならない。自分の楽しさだけで飲んでいた20代のお酒ではなく、部下を想いやる30代のお酒に変わった。

34歳で社内結婚。人生のステージが変わりつつあった。社内での自分の能力を客観的に見られるようになってきていた。ふと周りを見渡すと同期がほぼいなかった。リクルートの社風は若いうちの独立・起業を後押しする風潮がある。皆、いつの間にか外へ飛び出し自分の城を築いていた。40歳までに外へ出たい、そんな意識が高まり始めていた。


リクルートの外へ、日本の外へ

2011年、知り合いに呼ばれた酒の席で新谷に出逢った。この出逢いが40歳以降の人生を決定づけるとは思えないほどの、たわいない会話だけの場だった。30代半ばを過ぎ、外へ出る方法を考え始めていた。経験と能力が活かせて、余裕のある市場なら戦える。そんなことを考えていた。「週刊誌を立ち上げたい国があるから視察に付き合ってくれないか?」突然新谷から連絡があったのは初めて会ってから3年後のことだった。行き先はフィリピン。アジアで最も若い平均年齢23歳の国。メディアなら経験が活かせる、まだ経済途上のこの国なら競合が少ないだろう、チャンスだと思った。フィリピンでの週刊誌事業に賭けてみたいと感じた。

2015年、15年間勤めたリクルートの外へ出ることを決めた。英語を鍛えるためにセブ島での3ヵ月の語学留学を経て、マニラに移住。娘が生まれて10日後のことだった。娘を食わせていけるだろうか、不安を胸にフィリピン生活が始まった。


因果は必ずある。今やっていることは必ずカタチになる。

これはリクルート時代に社長が口にしていた訓示。大事な場面で頭に浮かぶ大事な言葉として心に留めている。初めての異国暮らしと立ち上げを両立させるのは本当に苦しかった。なかなか来ないオフィスのエレベーターを待ちながら、因果は必ずあると信じて、立ち上げに奔走する日々だった。雑誌名はPle(倍増する)+Com(快適・コミュニケーション)の造語『Plecom(プレコム)』に決まった。さらに立ち上げ経験のあるフィリピン人女性を経理として採用。そして、リクルート時代の同僚を日本から呼び寄せた。

週刊フリーペーパーの実績がないフィリピンでの営業は困難だった。以前に半年足らずで撤退していく媒体が多かったせいか、趣旨やビジョンがなかなか伝わらず、信頼を得るまでとても時間がかかった。2016年6月、念願のプレコムが創刊。やってきたことがカタチになった瞬間だった。創刊時に参画してもらえた広告主は25社。何も持ってない自分たちを信じて出稿してくれた広告主の方々の気持ちを肌で感じ、改めてこの国に尽力し頑張ろうと決意した。


在住者の生活インフラであり、企業間の橋渡しとなる存在になりたい

現在、正社員7名、パート3名でプレコムを創っている。アジアの病人という別称があるフィリピンには、まだまだ進出企業が少ない。そんな経済状況であっても、街にはビル建設が席巻し、移住してからの1年半の間にも景観は様変わりしている。9割の人がカソリックを信仰し、キリスト教の教えである許し合う精神を持っている。音楽が好きでダンスが好きで、道ばたやコンビニで歌い踊る人を見かけるほど陽気な人々が暮らす国。もちろん日本の感覚は通じない。約束は守れず、時間にルーズ。それでも、この経済が伸びゆく国とともにプレコムも成長していきたいと切に想い、期待に胸を膨らませている。

当面の目標は、この国の日本人に必要とされるメディアになることだ。住んでいる人が必要な情報を提供し、情報に飢えない環境づくりをしたい。まるでインフラのひとつであるように在住者の手元に届く媒体でありたい。そのためには信頼できる媒体であらねばならない。信頼の指標のひとつが、広告掲載数だと思っている。掲載数No.1を目指し、情報とネットワークを蓄積し、そしていずれは企業間の橋渡しができる媒体に育てたい。

海を渡る前の自分にあえて言おう。「君は強い覚悟が足りなかった。でもフィリピンがその覚悟を強く大きくしてくれた。外へ出るという選択は間違いなく面白い毎日だよ」



東南アジアで活躍する人
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