思いがけない巡り合わせで踏み出した一歩により、僕の人生は好転した
ベトナム


矢口 純一

矢口純一。1977年、神奈川県生まれ。4つ下の弟をもつ2人兄弟。父親は中国や韓国、ジャカルタでの駐在経験を持ち、実家では国際交流団体に所属しホストファミリーとして留学生を迎える活動に携わっているなど、異文化が身近にある暮らしだった。幼い頃から絵を描くことが好きで、高校卒業後に職業能力開発短大の産業デザイン科に進学し、デザイナーの仕事に就く。印刷会社、フリーランス、広告コンサルを経て、あるきっかけで日本を出ることを決意。ベトナムで人生が好転する出逢いに巡り合う。


  • 1998年4月 株式会社精真社印刷 入社(Designer)
  • 2000年3月 同、東京支社へ 異動(Designer)
  • 2002年1月 スキューバ関連企業へ 入社(Art Director)
  • 2003年8月 独立(Art Director / Designer)
  • 2007年3月 株式会社ディーズ 入社(Art Director・Consultant)
  • 2011年4月 Sunrise Advertising Solutions 入社(Art Director)
勉強嫌いだった学生時代。絵を描く時間が自分の居場所だった

横浜で生まれ、横浜の新興住宅地で13歳まで過ごした。幼い頃、勉強しない僕をみかねて、両親が通わせてくれたのが絵画教室だった。この頃から絵を描くことが自分の一部になっていたのかもしれない。中学校は無法地帯に近い荒れた学校だった。僕も例外なく学校や先生が嫌いな生徒だった。グレることはなかったが学校に時間通りに登校することはなかった。何もかもつまらなくなり、絵画教室も中学進学と同時に辞めてしまった。

中学校2年の春、母方の祖母の介護をきっかけに山形に引っ越すことになった。転校先は学力至上主義だったけれど、やっぱり勉強が好きになれず、休み時間や授業中に絵を描くようになった。「勉強が嫌いなら手に職をつけろ」と両親に言われ、工業高校電子技術科に進学。しかし工業の世界に興味が持てず、高校でも部室にこもり絵ばかり描いていた。そんなとき、「絵を描くのが好きならデザイナーという職がある」といって担任から手渡されたのが職業能力開発短大産業デザイン科のパンフレットだった。

自分のデザインとは、広告デザインとは。模索し学ぶ日々

短大でデザインの基礎を学び、1998年に地元の印刷会社に入社。本社がある群馬でデザイナーとして働きはじめた。ホームセンターのチラシ作成を任された。単調な制作に地味な作業、学生時代に思い描いていたデザイナーの世界とはかけ離れていた。2年後、東京支社に転勤。東京で触れたデザインの世界は華やかだった。これがデザインの世界だ! と思えた。2002年、東京支社の制作部が撤退。群馬本社に呼び戻されたが辞退し、東京に残って趣味だったスキューバ関連の会社に転職。営業が主力のこの会社で、デザイナーは自分一人。販促物から請求書のフォーマットまで、社内外のあらゆる物を作った。口の立つ営業マンと渡り合うスキルや外部との折衝など、デザインだけでなく色んなことを業務を通じて体得できた。

1年半後にはフリーランスに転向し、収入も倍増した。しかし4年目頃から仕事が減っていき、何か自分の強みを持たなければデザイナーを続けていけない、と危機を感じ始めた。いま自分がやっていることは誰にでもできることだった。改めて広告というものを一から学び直そうと思い、再びサラリーマンの道に入ることにした。

2007年、広告制作・コンサルティングのディーズに入社。広告の本質を体系的にまとめた社長の著書が話題になり、たった2人で大手広告代理店と対等に張り合う異色の制作会社だった。この会社では、荒削りだった自分のデザインスキル向上や、集客に必要な要素、マーケティング、ブランディングにいたるまでを理論と実戦を通して学ぶことができた。

「広告は、集客できなければただの紙屑」こんな単純で当たり前のことを多くのデザイナーが見てみぬふりをしている。僕は「広告効果」に真剣に向き合うことで、自分の進むべき道筋が見えた。顧客企業に深く入り込み最初に担当させてもらった企業では、売上前年比300%に達した。一人で月に4社も担当すると、あっとうい間に自分の時間なんて無くなった。でも、とにかく充実していて楽しかった。


日本じゃなければどこでも良かった。とにかく再出発したかった

僕に転機が訪れたのは、長年付き合ってきた人との別れだった。人生の約3分の1を過ごしたパートナーの心が自分から離れて行くのを感じたことで、仕事が手につかなくなった。心身共に疲れてもいた。もっと自分や彼女と向き合う時間を作ろうと思い2010年7月末にディーズを退職。バイクで旅に出たり、色んな人と会ったりしながら、自分に何が出来るのか何がしたいのか探る日々が始まった。しかし何もみつからないまま、半年後に彼女と決別することになった。打ちひしがれ、“どこか遠くへ”という想いが湧いてきた。日本の想い出を断ち切り、新しい人生をスタートさせようという決意だった。

2011年2月、手当たり次第に海外勤務のデザイナー職の求人を当たり、ふとしたきっかけで新谷を紹介してもらった。彼から「ぜひ一緒にベトナムでやろう」と言ってもらえた。2011年4月、僕はベトナムに渡った。



クオリティやインフラの不安定、人付き合いの工夫が求められる異国での仕事のはじまり

僕がベトナム週刊誌『ベッター』に参加したのは創刊4ヵ月後の頃。前任者の引き継ぎと締め切りに忙殺される日々だった。異国の暮らしへの違和感を感じる暇はなく、夜遅くに食事できる店を探すのが精一杯だった。大変な日々だったが、どん底にいた僕を拾ってくれた新谷への感謝がモチベーションの原動力だった。

ベトナムでの仕事では、停電、人の入れ替わりの頻繁さ、仕事への向上心が高くないことにイライラしていた。日本のクオリティを印刷会社に求めても、上手くいかなかった。「良いものを読者に届けたい」その想いで、毎週印刷会社に出向き、顔を突き合わせ、仕上がり確認を行うことにした。半年かけて、ようやく世に出せるレベルまで仕上がった。日本での仕事のやり方では通じないと痛感した。メールや電話だけで済ませるのではなく、顔を合わせて会話をし、相手を尊重することがビジネスをうまく進めるコツなんだと学んだ。


国をまたいで雑誌・広告の質を高める、自分に求められるものへの追求を

ディーズで学んだ広告制作の手法は今の自分の仕事の120%以上の糧になっている。現在、年間1900件超の広告に携わっていて、進出して成功する企業・失敗する企業が高確率で判断できるようになった。広告主の目的を掴み、読者が求める情報を的確にアウトプットすることが自分の仕事だと思っている。どんなにビジュアルが良くても効果が出なければ広告主は離れていく。反響を得ることでしか我々が評価されることはない。それがプロとして仕事と向き合う正しい姿勢。

現在はベッターだけに携わっているが、僕はグループ内で数少ない常駐デザイナー。この立場を活かして、今後ほか4ヵ国も合わせて誌面や広告のクオリティを引き上げる役目を担っていこうと感じている。


感謝は仕事で返したい、それが僕の美学

2015年、3年の交際を経てベトナム人の女性と一緒になった。2018年5月には双子が産まれる予定だ。仕事でも家庭でも自分に求められるものが増えてきた。今後は子育てと仕事を両立させる働き方を追求していかなければならないと感じている。

数年前、ベトナムに来るきっかけをくれた全ての人に感謝している。感謝は行動(仕事)で返していく、それが僕の美学だと思っている。ちょっとしたきっかけで日本を出ることになったけど、その一歩で人生が大きく好転した。これからも感謝の気持ちを良い仕事に代えて体現していきたい。



東南アジアで活躍する人
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